第1章:AIに使われる人間
AIへの依存は、突然深まるものではない。始まりは、あまりに自然で無害に見える。「今日は何をすればいいか」「このメール、どう返信すべきか」「天気は?」「買い物リストを作って」──それらは、確かに些細な問いだ。だが、その一つひとつをAIに委ねるたびに、人は自分で判断するという機会を手放していく。
自分の頭で考えることが、やがて「無駄」と感じられるようになる。手間を減らし、効率を高めるという建前のもと、人間は「決める」という行為の重みを軽んじていくのだ。
あるとき、ふと気づく。「自分は、今日何をしたいのか」──その問いすらAIに聞いている。それは命令ではなく、依存の兆候である。もはや「補助」ではない。そこには、自分の意志が見当たらない。
判断力とは、筋力に似ている。使わなければ衰える。どんなに小さな選択でも、自分で考え、決めることの積み重ねによって、人は「選ぶ力」を育ててきた。それを他者──いや、「AI」という便利な装置に任せることは、意識せぬままに「思考の筋肉」を委縮させる行為だ。
皮肉なことに、AIは「考えなくても済むように」作られている。だからこそ、境界線を自ら引かなければならない。「ここから先は自分で決める」「これは自分の責任だ」と明確にする意識がなければ、人は確実に、自らの判断力を放棄していく。
依存は、最初から姿を現さない。むしろ「効率化」「合理性」「最適化」という、美しい言葉に包まれて静かに始まる。そしてある日、人は「考えなくなった自分」に気づかぬまま、ただの受信装置となる。
これは警告ではない。現実に、今この瞬間も起こっていることである。AIに判断を預ける心地よさの裏側には、「問いを手放した人間の末路」が確かに存在している。